
出典:タチカワオンライン
ここが「花魁淵」と呼ばれるようになり、数々の禍々しいウワサの出るスポットとなった経緯を辿っていくと、そこには運命に弄ばれた遊女たちの悲しい歴史がありました。
「花魁(おいらん)」とは、その昔、遊廓で働いていた遊女のことです。江戸時代に、江戸幕府によって公認されていた吉原遊廓(よしわらゆうかく)は聞いたことがあるかもしれません。

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借金を抱えた家が娘を奉公に出すことが多く、そうして売られた女は遊廓で働くことになるのです。労働環境はとてもひどく、そのほとんどが27歳の誕生日を迎えることなく、その生涯を閉じました。
花魁淵の元となった事件
吉田遊廓に遊びにくる男たちは皆、政治的に身分のある人間でした。そうした男たちの相手をする花魁は、政治に関わる機密情報を耳にするも度々ありました。ある時、花魁たちは武田信玄直系の人物から、武田家の埋蔵金のありかを聞いてしまいます。埋蔵金の情報が漏れるのを恐れた武田家は、とんでもない行動に出ます。情報を知った花魁たちを全員、口封じの為皆殺しにしたのです。その数55人。
武田家は宴と偽り、55人の花魁たちを淵にかかった一本橋の上に集めました。そして、彼女たちに舞を踊らせたのです。花魁たちは自慢の舞を、橋の上で踊り始めます。しかし、その宴は突如終わります。武田家の合図で一本橋の紐が切られ、彼女たちは橋の下の滝壺へ突き落とされたのです。
55人の遊女のほとんどが溺死。運良く川に流されて近くの農村に辿り着いた遊女も、農民に助けられることはありませんでした。幕府から「遊女を助けるべからず」と通達があった為です。非情に非情を重ねた、惨殺事件でした。
彼女たちを不憫に思った村人たちは、その後慰霊のための祠を立てています。

出典:神さまブログ~飛鳥の風~
現在も踊り続ける花魁たち
肝試しに訪れた多くの方が、暗がりの橋の上で妖しく踊る花魁たちの姿を目撃しているとか。今も変わらず踊り続ける彼女たちが神上がりする日はくるのでしょうか?暗く悲しい歴史の舞台となってしまった花魁淵ですが、太平洋戦争時、米軍を驚かせたある都市伝説があるのです。